STORY

HIDEKI UDA
01

夢を追いかけたサッカー少年。
中田英寿選手に憧れたもう一人の「ヒデ」。

1987年4月6日、滋賀県信楽町に生まれ育った宇田秀生(うだひでき)。小学1年生の時に兄の影響でサッカーを始め、毎日、日が暮れるまで全力でボールを追いかけた。高校卒業まで県代表選手として活躍するも「一生分走った」と思うほど過酷なトレーニングに、一時は情熱を失いそうに。しかし「おまえはチームの宝だ」というコーチの言葉に、幼い頃抱いた夢へ向けて、再び走り出す。

スポーツ特別枠で大学に進学すると、「全力で今を楽しむ」のモットー通り、新しい環境で出会った仲間たちと学生生活を謳歌する。卒業後は建設会社に就職し、2013年5月5日には大学時代に知り合った亜紀さんと結婚。順風満帆、幸せの真っ只中だった。この時、どうして想像できただろう。そのわずか5日後、就業中の事故で機械に巻き込まれ、生死の狭間を彷徨うことになろうとは。

02

幸せの絶頂期に襲いかかった、
人生最大の絶望と葛藤と。

なんとか一命を取り留めるも、目を覚ました時、薄れゆく意識の中で目にした悪夢が、現実以外のなにものでもなかったことを知る。「なくなっちゃった…」。昨日までたしかにあったはずの右腕が、もうそこにはなくなっていた。「ペットボトルのフタすら開けられない」「ネクタイだって結べない」。これからの人生で、一体何度「できない」が、待ち受けているのだろうか。

「なんとかなるよ、二人一緒だから」。途方に暮れる夫を、精一杯の笑顔で支えたのは、妻の亜紀さんだった。「元気のないヒデは、ヒデじゃない」。地元や遠方から何十人もの友人が駆けつけてくれた。応援メッセージをプリントしたシャツ着て、祈りを込めた千羽鶴を折る真剣なみんなの眼差し。ひとつ、またひとつ、そして遂には1万2千もの想いが手渡される。「これ以上弱い自分は見せられない。」そう、もうすぐ生まれてくる自分の息子にも…。

03

運か、実力か、それとも才能か。
その答えは既に見えている。

本当の転機はこれだけではなかった。大事故からわずか半年後のこと、「片手で泳げるなら」とリハビリの延長で始めた水泳をきっかけにトライアスロンに出会う。「やるなら、勝つ」。その気持ちだけで、地元滋賀で開催された「びわ湖トライアスロン大会」に出場する。レース2週間前に完成したロードバイクを駆り、いきなり準優勝。「パラリンピックいけるんちゃうかな。」この時そう思ったのは、本人だけではなかった。

「本格的にやってみないか。」トライアスロンチームの監督から声をかけられ、勢いに任せて「アジアパラトライアスロン選手権」に出場。2レース目にして見事、優勝を果たす。大事故から2年、初レースからわずか2ヶ月後のことだった。その後、世界選手権やワールドカップで連戦上位入賞を果たし、2017年7月には世界ランキング1位に。現在も、仕事と家庭との忙しい合間を縫ってトレーニングに励む。専業アスリートではないのだ。そう、宇田秀生は、まだまだ強くなれる。

Message

誰もが、誰かの原動力になれる。

26歳の時、事故によって右腕を失いました。

一生、忘れることはできないでしょう。

それでも、今その事故を100%受け入れられるのは、
一生失うことのない家族や友人たちとの絆を手にしたからです。

今、本当に多くの力をもらっています。

こうしてパラトライアスロンで世界に挑戦し続けられるのも、
レース中に限界を感じた時、勝利を諦めそうになった時、
みんなの「ヒデ、ガンバレ」という力強い声が、
次の一歩を後押ししてくれているからに他なりません。

これからも、これまで以上に活躍する姿を見ていてください。

みんなからもらった力を原動力に、
必ず最高のゴールを勝ち取ります。

みんなの原動力になれるような、
最高の笑顔で。

Hideki Uda

ROAD TO PARIS 2024
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